ファインダーは追憶の小窓

写真が好き。だれでも気になる小さなことや奥深いこと。そんなことを皆さんと一緒に考えて写真について深めてみたいと思います。

明るいレンズ?

「明るいレンズ」とよく言いますが、これはだいたいF2.8とかF2よりもF値が小さい大口径レンズのことを指しますね。
確かにF値が小さいほど光量が確保されるので「明るいレンズ」とは言い得て妙なんですが、昔は大口径レンズのことを「ハイスピードレンズ」と呼んでいました。
(今でも一部ではこう呼んでいる向きもあります)

昔々、フィルムの感度はASA100未満の低感度フィルムが主流でした。
現代ではISO400くらいでも常用感度ですが、そんな高感度フィルムは無かった頃の時代です。
ASA100くらいのフィルムが一般的になってきたのが今から60年くらい前でしょうか。
そんな時代、少しでも暗い場所で撮影を可能にするためには、レンズ自体を大口径にしシャッタースピードを稼ぐ必要があったわけです。

だから大口径レンズは「ハイスピードレンズ」。
個人的には「明るいレンズ」と言われてもなんとなく「ああなるほど」としか感じないんですが、「ハイスピードレンズ」と言われると目的がハッキリしてとてもイメージしやすいと思っています。

 

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銀座にて(GR1sで撮影)

 

今から40~50年位前までは、ツァイスがトップクラスの技術を有しており、当時では世界最速のSonnar 50mm F1.5という優れたハイスピードレンズを作っていましたが、同じ頃ライツなどではせいぜいF2くらいがハイスピードレンズの限界でした。今のようにF1.4がごろごろしていて一部にはF1.1とかF0.95なんていうハイスピードレンズがあるなんて、スチルカメラ用レンズとしては考えられない時代だったと思います。

カメラ先進国であったドイツをはじめとする欧米では元々そういう事情で大口径レンズが開発されていったわけですが、日本のメーカーの技術力が高まりついには逆転したころ、大口径レンズによる「ボケ」という表現が好まれてきます。
以前にもお話したことがあるかもしれませんが、「ボケ」という概念は日本発信の写真技法であり、今では欧米でも「Bokeh」という言葉そのままに伝わっていますが、欧米で「Bokeh」が伝わったのは少なくとも2000年以降ではないかとも言われているくらい、海外では新しい概念なんですね。
そもそも海外のフォトグラファーの名作でBokeh写真が一切見当たらないことからも、志向の違いがよく分かると思います。

   ツァイスの代表的なレンズ「プラナー 

まあ、欧米と日本の差はともかく。

写真において最もボケを好むのは日本人であり、そういう意味ではボケを作りやすい明るいレンズ(大口径レンズ)に対する羨望が生まれたのだろうと思います。
一方で、本来的には大口径レンズは「ハイスピードを稼ぐため」に開発されたものであり、そのことを念頭に置くと、現代の高感度性能に優れたデジタルカメラでは無用な大口径レンズは本来的には不要ではないかとも考えられるわけですね。
もちろんこれは“そもそも論”であり、ボケを楽しむためにはより大口径レンズの方が有利ですから、大口径レンズをまったく不要と考えるのは非現実的だとも思います。
ただ、個人的にはデジタルカメラであればF2くらいの大口径レンズで、もう必要十分だと思ってはいます。

どれくらいの「明るいレンズ」が欲しいのか。
それは個人個人の趣味や考え方の差によって様々だと思います。
とはいえ、そもそもF値の小さい大口径レンズがどういうニーズによって開発されてたのかという経緯を知っておくことは、レンズ選びの際のひとつのヒントになるかもしれませんね。

 

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写真とカメラとレンズと。

巷では新型のカメラやレンズが発表されると、「解像度がどうの」とか「高感度がああだ」とか「周辺光量落ちがうんぬん」だとか果ては僕には理解不能な電子専門用語で「○□△×回路が▽◎■なので、このセンサーは※▲☆なんです」などという込み入ったスペック論議など、好きな人々が一斉に評論を始めますね。

 

先日書いた通り、僕はいままでいろんなカメラとレンズを使ってきました。
でも実は、デジタルカメラの細かいスペックやレンズのMTF曲線などの部分はほとんど興味がありませんし、詳しく知ろうとも思っていません。
そういうことを勉強する時間があるとすれば、むしろたくさんの写真を見たいと思う方です。
なので、ネットの書き込みで、上記のようなスペック評論や議論を展開されている人々を見るにつけ「そんな時間があれば写真の勉強をすればいいのに」と思うのです。
新型のカメラやレンズで撮った写真をPC上で等倍観賞して“重箱の隅”を突くなどというナンセンスなことを試みるよりも、そのカメラやレンズでどうしたらいい写真を撮ることができるか、ということにベクトルを向けるべきだと。
根本的に、今後どれだけ技術が進もうとも、完璧なカメラやレンズなんてできるわけは無いのですから。

僕の尊敬する先輩アマチュアカメラマンの方が以前こんなような話をされていました。
「日本のユーザーのようにカメラやレンズについてああだこうだばかり言ってると、欧米では『お前は写真が好きなのかカメラが好きなのか、どっちなんだ?』と聞かれるでしょう」

もちろん、カメラやレンズのスペックが気になってしょうがない方は、それはそれでまったく問題ないと思います。
そういう趣味の持ち方があってもまったく構わないのですから。
ただ、ネットの書き込みや雑誌などのそういう評論に引きずられるビギナーの方々もいるということが少々気になります。

極端な例かもしれませんが、僕の好きなフォトグラファーであるマリオ・ジャコメッリは露出のことなどよく理解していなかったといいますし、いま人気のある梅佳代にしても愛機のEOS5でプログラムオートのみでの撮影です。
もちろん露出のことを知っておくことは悪いことではないし、むしろ、露出のことを知らないジャコメッリは古いマニュアルカメラでどうやって絞りとシャッター速度を選択したのだろうと逆に感心します。
しかし、それでも傑作は撮れるという事実があるわけですから。

マチュアの僕が言う言葉ではないかもしれませんが、写真とはカメラやレンズで決まるものではないということが厳然たる真理だと思います。
そういうことをいつも心に思い起こしながら、僕は写真と向き合おうと思っています。
そして、いろいろな場所で純粋に素晴らしい写真を拝見するたびに新たな発見をさせて頂いているのです。

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どこで撮ったか覚えていないけど、こういうスナップショットがすき。

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拙作です。のぞいて頂けると幸いです。 

   

「ボケ」は必要?

「一眼レフやミラーレスカメラが欲しい!」

という方がなぜ本格的なカメラを買いたいと思うのか、その欲求の最大の要素は「ボケ」のある写真が撮れることもあると思います。

ボケの本質は、ピンボケの部分ということなんですが、光源などが丸ボケしたり被写体が浮かび上がって表現されたりすると、なんともファンタジックで素敵な写真に見えますよね。

 

ボケのある写真を撮るときは、明るいレンズか、望遠レンズの望遠端で撮ると表現しやすいですね。要するに被写界深度を浅くしてやればいいわけです。

望遠レンズでは望遠になるほど被写界深度が浅くなりますし、F値の低いいわゆる明るいレンズでは開放にすると被写界深度が浅くなり、ピントが合っている部分以外は「ボケる」ことになります。

 

最新のコンデジでもそこそこボケるようになってきましたし、スマートフォンでもレンズ性能が上がったりアプリでボケを加工して後付けできるようにもなってきています。

また、聞いたところによると「Boke」は日本発信で海外のフォトグラファーにも浸透してきているそうです。

また、ボケと合わせて、光源をクロスさせてさらに綺麗にするクロスフィルターというものもあります。

 

 

 

で、ボケって本当はどうなの?

 

過去30年来、世界的に著名な写真家が「レンズのボケ味に関して言及したことはただの一度もない」。これは厳粛な事実である。


↑この一節は、田中長徳氏著『ライカワークショップ』の【自分に「ぼけ味」という評価は最初から存在していない】という章の書き出しです。
さらにこう続きます。
(以下、痛快なので最後まで省略なしです)

「一方で、写真を表現として認知できない輩は、もっぱらレンズのぼけ味について語っていて、それが尽きることはない。思うに、世界的な写真家連中も本当はレンズのぼけ味に関して語りたいのかもしれない。ただ、彼らはライカの節操を第一としているから、いやしくも写真を表現のための手段とわきまえている以上、レンズの副次的な余韻であるところのレンズのぼけに関して語ることは、自己の国際的な価値を下げるであろうことを無意識に自覚しているのかもしれない。
 
 誰だって、ズミクロン50ミリの沈胴レンズの後ぼけの味を熱く語るブレッソンなんて想像するのも嫌だし、ズミクロン35ミリの後ぼけの形を分析するアンドレ・ケルテスなどは嫌いになろうというものだ。
 
 写真家は愛用レンズに関して、そのシャープネスもぼけ味もテストして知り尽くしていることは当然の事実である。ただし彼らがあえてレンズのそれらの特性に触れようとしないのは、実は彼らが表現の道具として使っているレンズそのものが、実は彼らの思考回路の一部、自らの眼の延長になっているからにほかならない。自分の眼球の性能を云々するのは、自分の芸術的な天分の欠如を自ら欠点として告白するのも同じことである。身内のことは悪く言わない。写真家にとってレンズは身内なのだ。これが最大の違いだ。つまりここで言う、百凡のアマチュア写真家が、自分が手に入れた新レンズの性能の最大のイベントである、レンズの「ピントの合っていない空間の前後の描写」について軽々しく口に出すことは、彼らは「レンズは交換が可能な商品でそれはもともと自分の肉体ではない」という無責任な考えが前提になっているからだ。
 
 表現者としての写真家が選択する1本のレンズは、自己の視神経の延長そのものである。自分の視神経のすべてをその1本のレンズに委託するのであるから、めったやたらなことは口外すべきでないことを彼らは直感的に知っているのだ。レンズのぼけ味の危険さを熟知している写真家はそのことに触れるのを禁忌とさえ考えているのに対して、レンズが単なる、カメラ店のウィンドーにずらりと並んで、どれでも値札の価格の支払いに応じてお持ち帰り自由と考えている「お気楽連中」のみが、ライカのレンズに対して「体制批判」をする権利を有しているともいえよう。それにしても巷間、なぜこれほどまでに「ライカレンズのぼけ味」が大事な要素であると認識されているのであろう。

 大抵のライカ人類は絞り羽の枚数がより多く真円であることが理想的なレンズのぼけの特性が即優秀なぼけ味であると思っている。彼らの信仰する理想のぼけ味とは「詩的な抒情を持った美麗なぼけ」であるらしい。あたしにとってのぼけとは「ライカの画面上のピントの結像していない部分の総称」でしかない。その意味であたしにとってのライカ写真は「ぼけ味」という評価は最初から存在していないのだ。大体、ピントの合っていない空間に詩的な情緒を感じるという価値があたしには理解できないのである。大学のフォトサークルにありそうな「フォトポエム」といったすこぶる陳腐な愛好会などを、レンズのぼけという言葉を聞くと反射的に思いだしてしまう。
 
 まあ、ぼけ味などは彼ら、フォトポエム部に任せておけばよいのだ。我々にはもっと重要な仕事がある。」


僕も「ボケ」そのものについて「あのレンズだとボケ味が」とか「絞り羽が○枚だからボケが綺麗だ」とか、あーだこーだ言うことはナンセンスだと思っていて、あくまでも表現の手段だと思っています。
なので田中長徳氏のこの一文を読んで痛快であり愉快であり…

「ボケ味」に関するチョートク先生のお考え、僕は本質を見事に喝破されていると思います。

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屋内でレンズを開放気味に撮るとこんな感じに。

 

       

 

 

        

敬愛する写真家より。

僕の大好きなフォトグラファーの一人であるエルンスト・ハース。
1993年に日本で開催された「エルンスト・ハース展」の作品目録を入手しました。
もちろん、彼の作品は素晴らしいのですが、その中に彼の語録もいくつか作品と同時に掲載されていたので、それを紹介しようと思います。


「写真は説明的でないほど、想像力を刺激する。饒舌でないほど示唆に富み、詩情が豊かになる」


「画家は真っ白なスペースに自分の絵を描く。写真家はすべてのものが存在する空間から自分の絵柄を取りだす」


「見ること、空間と色を意識することは、全然別物なのだ。見れば見るほど、深く洞察すればするほど、違ったものが見えてくる。なにごともじっと見つめることが肝要だ」


「わたしは自分の在り方の基本を論理にはおかない。これまでずっと直感を信じてきた」


「あなたとあなたのカメラがあるだけだ。あなたの写真の限界はあなた自身のなかにある。わたしたちが見えるのは、自分と等身大のものだけだから」


「あなたが写真を撮ったというよりも、写真にあなた自身が写されているともいえるのだ」


「カラー写真とは、カメラを通してのみ関係できる対象をつなげることで、現実から詩を見出さなければならない」


「人間こそが万物の尺度なのだ。そしてあなた自身がその尺度となって、レンズをもってミクロやマクロの世界を創れるのだ。自分の世界を創りだすことこそ人間の宿命なのだ」


ご存じの方も多いと思いますが、エルンスト・ハースは“色彩の魔術師”と呼ばれるほど素晴らしいカラー写真を数多く残しています。
もちろん、モノクロ写真にも心打たれる作品が多い。
キャパの誘いでマグナム会員にもなっていたハースは、スナップ、ネイチャー、ポートレートなど様々なジャンルで素敵な作品を撮っていて、このことが僕が彼を尊敬する大きな要因でもあります。

彼の写真集は現在ではすべて絶版になっていて、手に入れることは少し困難なのですが、彼の最高傑作といわれる「The Creation」はぜひ一度ご覧頂きたいなぁと思います。

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もう絶版だけど、古書店で手に入れることができます。

 

 

                                              

 

 

            

フォトグラファー語録

古今東西のフォトグラファーたちの語録の一部をピックアップしてみました。
共感されるものがあるかもしれませんし、異論のあるものがあるかもしれません。
非常に有名な名言も含まれていますので、もしご興味があればお目通しください。


「写真は動作中の諸要素が見事に釣り合う瞬間をとらえ、その均衡を不動のものにしなければならない」
アンリ・カルティエ=ブレッソン

「写真っていうのはいい被写体が来た、って思ってからカメラ向けたらもう遅いんですよ。その場の空気に自分が溶け込めば、二、三秒前に来るのがわかるんですよ。その二、三秒のあいだに絞りと、シャッタースピード、距離なんかを合わせておくんです。それで撮るんですよ。」
木村伊兵衛

「君の写真が傑作にならないのは、あと1歩、被写体に近づいていないからだ。」
ロバート・キャパ

ライフ誌からの専属カメラマンのオファーを断った時の返答
「写真家には雑誌のために写真を撮るひとと、自分の興味あるものを撮影しそこから何事かを得るひとの二種類があり、わたしは後者に属します」
エルンスト・ハース

「小型カメラで仕事をしていると、物がいつも動いているのが見える。そこで、あなたもそのなかへ動いていくべきなのだ。ビューファインダーで見る光は、社会的な生活風景のなかでは非常に早く変化する。たくさんのことが、ほんの1,2分のあいだに起きる」
リー・フリードランダー

「とにかく数を撮ることだ」
森山大道

デジタルカメラとは?との問いに
「写真家の行為じゃない」
中平卓馬

「いい写真というものは、写したものではなくて、写ったのである。計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真ができる。ぼくはそれを、鬼が手伝った写真と言っている」
「風景に向かって手も足も出ない、そのまま撮ってくるというようなやり方では、新しい今の風景写真は作れない。作者自身の日本の風土というものに対し、民族というものに対し、伝統というものに対してはっきりした定見をもっていかなければ撮れない」
土門拳

「見るという単純なことが楽しくて仕方がないときがある。そんなとき、警察官が自分が道路を横断するために車を止めてくれたときのように、鳥の羽根のような軽やかな気分になる。こんな溢れ出る気持ちを誰かと分かち合いたいと考えると、とても高揚した気分になる。こうした瞬間の記憶は、私の中では最も大切なものである。それはたぶん、そんなことはほとんどないからであろう。あちらで100分の1秒、こちらで50分の1秒と写真を撮り、それらの写真数十枚をまとめて写真集にしたとしても、結局のところ、それらはせいぜい3秒程度の時間に過ぎない。しかし、それは永遠から搾り出された3秒間である」
ロベール・ドアノー

「私は、写真は写真を撮る者の人生経験を反映していると思う。白黒写真でやっていくことが可能であることが分かると、私はカラーを使うことをやめた。白黒写真はより微妙な表現ができる。そして、暗室作業の中で、私は写真を撮っているときに感じたことを再現することができる。カラーは生々しすぎるし、暴力的だ。白黒写真は想像やイマジネーションを可能にする。」
セバスチャン・サルガド

「修正は一切していない、コンピュータ処理も行っていない。私は自分の目で見たものを撮ってきた。」
ヘルムート・ニュートン

「ライカのような、単純な、レフレックスでない、被写体を直接見るカメラと、一眼レフとの間には、大きな違いがある。一眼レフだと、カメラの中で絵作りをしてしまいがちになるが、ライカのようなカメラだと、まず被写体をよく見なくてはならず、それからその周りにフレームをつけていくのだ。レンジファインダー・カメラはまた、ピント合わせが素早いとか、より静かとか、より小さいとか、他にも利点はあるが、これらは上のような一眼レフとの根本的な違いと比べれば、とるに足らないものである。」
エリオット・アーウィット


上記の語録は、僕自身が自分をインスパイアするために集めたものですので、ちょっと僕の主観的収集になっているかもしれません・・・
その点はご容赦くださいね(笑)
さて、何か気になった言葉はあったでしょうか?

  

 
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被写界深度

今から20年くらい前、初めて自分で一眼レフを買った。ミノルタα7700iだ。標準ズームと300mmの望遠ズームにストロボを一緒に買って、確か20万円くらいだったと思う。
子供のころに親父の持っていた一眼レフを何度か撮らせてもらい、なんとなく「いつか自分も一眼レフが欲しい」と思っていたのだろう。
初めての一眼レフは、親父の一眼レフとは違ってすでにフルオートだった。シャッターさえ押せばなんでも撮れた。
それでも一眼レフの勉強をしたいと思って何か写真の基礎について本を買ったのを覚えている。その時に覚えた写真用語が「被写界深度」だった。
でも、なぜかその時は意味が分からなかった。何度か本を読み返したが、それでもよく理解できなかったことだけは記憶している。
αはよくサーキットに持っていき、モータースポーツ流し撮りをしていたのでシャッタースピードのバランスだけは必要に駆られて覚えたのだが、それでも「被写界深度」だけはずっと理解できなかった。
結婚し子供が小さい頃までαは現役だったが、そのうちにだんだんと使わなくなってしまった。


                

5年ほど前、家内が「子供たちの野球やサッカーを撮りたいからデジタルの一眼レフを買う」と言いだした。近所のコジマへ行って、勧められるままにEOS Kiss Digital N Wズームキットを購入した。望遠ズームが200mmだったので「これで足りるかい」と店員に尋ねたら、「デジタル一眼レフですからこれで300mmになります」と言われたがよく分からなかった。とりあえず「300mm相当になるならいいや」となんだか納得しただけだった。
それから、やっぱり“かんたん撮影ゾーン”だけ使って子供たちを撮っていた。

その後、新聞で「中級一眼レフ人気上昇中」みたいな記事を読んでEOS 40Dが欲しくなり、雪の中、横浜で思い切って購入した。
それからだった。
突然自分の中で写真熱が急速に膨れ上がったのは。
写真撮影やデジタル一眼レフの基本についての本を結構読んだし、下手なりに覚えた知識を活かして撮影にもトライした。
そしてやっとわかった。「被写界深度」の意味とコントロールの仕方が。

 

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今は写真を撮るのが本当に楽しい。間違いなく生涯の趣味になるだろう。
まだまだ“納得いく一枚”は撮れないが、試行錯誤しながら、カメラやレンズの性能にも頼りながら、少しずついろんな写真が撮れるようになってきたと思う。
それでもプロアマ問わず溜息が出るような写真を見るたびに「どうしたらこんな写真が撮れるんだろう」と自分のスキルの低さを痛感するのは日常茶飯事だ。

道を歩くたび、電車に乗るたび、車を走らせるたびに被写体を探す自分がいる。四季をこれほど肌で敏感に感じ取ろうとしたのは生れて始めての経験だった。
楽しみながら、悩みながらこれからも自分なりの写真を撮ろうと思う。自分の中の「被写界深度」をある時は浅く、ある時は深くしながら。

 

※このコラムは自分が今から10年まり前、まだビギナーだった頃に書き残したものです。同様に感じておられる方がおられれば参考になるかもと思い、掲載しました。

 

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写真はお好きですか?

皆さん、こんにちは。

写真が好きなひろさんです。

以前は随分とカメラやレンズを持っていました。

もちろん、デジタルカメラフィルムカメラ、一眼レフとか二眼レフとかレンジファインダー、35mmから中判も、いろんなカメラを使ってきました。

でも、いまはそれらを整理して、本当に自分が使いやすいカメラだけにしつつあるところです。

それから、自分で写真撮影するのも好きだけど、写真集や展覧会で写真を観るのも大好きです。 

そんなアマチュアカメラマンです。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

ところで、皆さんは「写真」がお好きですか?

それとも「カメラ」がお好きですか?

私の主観ですが、男性はどちらかというと「カメラ」を主とした機材に主な興味があり、女性は「写真」そのものを撮ることに興味があるような気がしています。

もちろん、どちらも趣味としていいことだと思いますし、機材も写真もどちらにも興味があることは撮影技術自体が上手くなりますし、それはそのまま写真が上手になることにつながると思います。

 

でも、はじめて写真にハマりだした方々によくあるのが、

「カメラやレンズが良くなればもっといい写真が撮れるはず」

という錯覚です。

確かに、一眼レフとかミラーレスのような本格的なカメラとレンズで撮影すれば、撮影の幅は広がります。

で、そういうカメラの作例なんかを見ると「自分もこんな写真が撮れるんだ」と思って、実際に高いお金を出してそういうカメラを買って撮ってみると「?」とあまり納得のいかない写真になってしまうことがよくあります…

 

 機材で写真は決まらない?

 

結論から言えば、その通りだと思います。

「えー。この前せっかくいいカメラ買ったのに!」

という方もおられるかもしれませんが、写真を撮るのは撮影者です。決してカメラが撮ってくれるわけではありません。

現代のカメラは露出やピント合わせなど、初心者ではむずかしい操作をほぼフルオートで設定してくれはしますが、写真を撮るときの撮影者の「意図」までは汲むことができません。

上手な写真を撮るためには、まず、撮影者の意図があって、それを反映させるテクニックが必要です。

そのテクニックや表現の幅を拡げてくれるのが機材だと思うのです。

 

かく言う僕も、以前は「いい写真を撮るためにいいカメラやいいレンズが欲しい!!」と強く思っていました。

なので、今まで所有してきたカメラの一部ですが、

Canon 5D MarkⅡ・MarkⅢ、EOS Kiss N・X7

FUJIFILM X-E1

RICOH GR digitalGR digital

ハッセルブラッド

ローライフレックス

・ライカⅢD、M3

などなど、防湿庫にレンズ群とともにいっぱい入っていました。

納得がいかないと買い換えていきましたので、使ってきたカメラはこれの数倍になります。

でも、いまは写真を撮るときのメインカメラはiPhone Xです(笑)

もう重い一眼レフを持ち歩くのが苦痛になってきたことが最大の原因ですし、今のスマートフォンのカメラは相当優秀になったことも大きな原因です。

 

ここで、2枚の拙作を紹介します。

どちらかがフルサイズ一眼レフで撮ったもの、どちらかがiPhone Xで撮ったものです。

どちらも多少Photoshop等で仕上げ作業を行なっていますが、さて、どちらがどちらか分かりますか?

 

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分かった人は相当な機材オタクかもしれません(笑)

正解は上がフルサイズ一眼レフ、下がiPhone Xです。

下の写真は下のほうにフレアが発生しています。さすがにiPhoneのレンズでもろの逆光は厳しかったのでしょうね。

でも、僕としては下の写真の方が好きです。

鎌倉に行った時にサッと撮ったものなんですが、砂浜の情景が眼に残る一枚じゃないかなと思います。

そういえばiPhone Xが新発売されたとき、屋外広告でiPhone Xで撮った写真の大きなポスターが何種類もありましたが、あの作品たちは一見ではiPhoneで撮ったとは思えないほどクオリティが高かった記憶があります。

 

 要は自分がどんな写真を撮りたいか

 

これが重要です。

まずはスマートフォンでぜんぜん構いませんからどんどん写真を撮っていきましょう。

森山大道という著名な写真家も、「写真が上手くなるにはどんどん写真を撮ることが大切だ」というようなことを言っています。

それから、いろんな人の写真を見ることも大切です。

 写真集や写真展で観るのもいいし、今でネットでいろんな写真がすぐに閲覧できます。

そういう中から「自分もこんな写真が撮りたいなぁ」というのがあれば、そのマネをしていくといいと思います。

そうすると「あの写真はどういう風に撮ったんだろう」といろいろと工夫すると思いますし、そうすることで自然とスキルが上がってくるんじゃないかと思います。

写真を撮るのに機材は二の次、基本は撮影者の意図とスキルが大切だということです。

 

ちょっと堅い話になりましたが、写真が上手くなりたいなぁとかもっと綺麗な写真を撮りたい、という方々に少しでも役に立つコラムを書いていきます。

これからもどうぞよろしくお願いします。

 

↓拙作の一つです。

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