ファインダーは追憶の小窓

写真が好き。だれでも気になる小さなことや奥深いこと。そんなことを皆さんと一緒に考えて写真について深めてみたいと思います。

「ボケ」は必要?

「一眼レフやミラーレスカメラが欲しい!」

という方がなぜ本格的なカメラを買いたいと思うのか、その欲求の最大の要素は「ボケ」のある写真が撮れることもあると思います。

ボケの本質は、ピンボケの部分ということなんですが、光源などが丸ボケしたり被写体が浮かび上がって表現されたりすると、なんともファンタジックで素敵な写真に見えますよね。

 

ボケのある写真を撮るときは、明るいレンズか、望遠レンズの望遠端で撮ると表現しやすいですね。要するに被写界深度を浅くしてやればいいわけです。

望遠レンズでは望遠になるほど被写界深度が浅くなりますし、F値の低いいわゆる明るいレンズでは開放にすると被写界深度が浅くなり、ピントが合っている部分以外は「ボケる」ことになります。

 

最新のコンデジでもそこそこボケるようになってきましたし、スマートフォンでもレンズ性能が上がったりアプリでボケを加工して後付けできるようにもなってきています。

また、聞いたところによると「Boke」は日本発信で海外のフォトグラファーにも浸透してきているそうです。

また、ボケと合わせて、光源をクロスさせてさらに綺麗にするクロスフィルターというものもあります。

 

 

 

で、ボケって本当はどうなの?

 

過去30年来、世界的に著名な写真家が「レンズのボケ味に関して言及したことはただの一度もない」。これは厳粛な事実である。


↑この一節は、田中長徳氏著『ライカワークショップ』の【自分に「ぼけ味」という評価は最初から存在していない】という章の書き出しです。
さらにこう続きます。
(以下、痛快なので最後まで省略なしです)

「一方で、写真を表現として認知できない輩は、もっぱらレンズのぼけ味について語っていて、それが尽きることはない。思うに、世界的な写真家連中も本当はレンズのぼけ味に関して語りたいのかもしれない。ただ、彼らはライカの節操を第一としているから、いやしくも写真を表現のための手段とわきまえている以上、レンズの副次的な余韻であるところのレンズのぼけに関して語ることは、自己の国際的な価値を下げるであろうことを無意識に自覚しているのかもしれない。
 
 誰だって、ズミクロン50ミリの沈胴レンズの後ぼけの味を熱く語るブレッソンなんて想像するのも嫌だし、ズミクロン35ミリの後ぼけの形を分析するアンドレ・ケルテスなどは嫌いになろうというものだ。
 
 写真家は愛用レンズに関して、そのシャープネスもぼけ味もテストして知り尽くしていることは当然の事実である。ただし彼らがあえてレンズのそれらの特性に触れようとしないのは、実は彼らが表現の道具として使っているレンズそのものが、実は彼らの思考回路の一部、自らの眼の延長になっているからにほかならない。自分の眼球の性能を云々するのは、自分の芸術的な天分の欠如を自ら欠点として告白するのも同じことである。身内のことは悪く言わない。写真家にとってレンズは身内なのだ。これが最大の違いだ。つまりここで言う、百凡のアマチュア写真家が、自分が手に入れた新レンズの性能の最大のイベントである、レンズの「ピントの合っていない空間の前後の描写」について軽々しく口に出すことは、彼らは「レンズは交換が可能な商品でそれはもともと自分の肉体ではない」という無責任な考えが前提になっているからだ。
 
 表現者としての写真家が選択する1本のレンズは、自己の視神経の延長そのものである。自分の視神経のすべてをその1本のレンズに委託するのであるから、めったやたらなことは口外すべきでないことを彼らは直感的に知っているのだ。レンズのぼけ味の危険さを熟知している写真家はそのことに触れるのを禁忌とさえ考えているのに対して、レンズが単なる、カメラ店のウィンドーにずらりと並んで、どれでも値札の価格の支払いに応じてお持ち帰り自由と考えている「お気楽連中」のみが、ライカのレンズに対して「体制批判」をする権利を有しているともいえよう。それにしても巷間、なぜこれほどまでに「ライカレンズのぼけ味」が大事な要素であると認識されているのであろう。

 大抵のライカ人類は絞り羽の枚数がより多く真円であることが理想的なレンズのぼけの特性が即優秀なぼけ味であると思っている。彼らの信仰する理想のぼけ味とは「詩的な抒情を持った美麗なぼけ」であるらしい。あたしにとってのぼけとは「ライカの画面上のピントの結像していない部分の総称」でしかない。その意味であたしにとってのライカ写真は「ぼけ味」という評価は最初から存在していないのだ。大体、ピントの合っていない空間に詩的な情緒を感じるという価値があたしには理解できないのである。大学のフォトサークルにありそうな「フォトポエム」といったすこぶる陳腐な愛好会などを、レンズのぼけという言葉を聞くと反射的に思いだしてしまう。
 
 まあ、ぼけ味などは彼ら、フォトポエム部に任せておけばよいのだ。我々にはもっと重要な仕事がある。」


僕も「ボケ」そのものについて「あのレンズだとボケ味が」とか「絞り羽が○枚だからボケが綺麗だ」とか、あーだこーだ言うことはナンセンスだと思っていて、あくまでも表現の手段だと思っています。
なので田中長徳氏のこの一文を読んで痛快であり愉快であり…

「ボケ味」に関するチョートク先生のお考え、僕は本質を見事に喝破されていると思います。

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屋内でレンズを開放気味に撮るとこんな感じに。