ファインダーは追憶の小窓

写真が好き。だれでも気になる小さなことや奥深いこと。そんなことを皆さんと一緒に考えて写真について深めてみたいと思います。

ストリートスナップ

僕は、写真を始めた頃はやっぱり風景が撮りたくて、江の島やら松本城やらそういう場所に行って三脚を持ち出したりして無心に撮っていました。

わざわざ日没時間に合わせて湘南に行ったり、朝の光を浴びた城を撮るために早起きしたり、日暮れの大桟橋に行ったり。

どれくらい絞ろうかとか、構図はどうしようとか。

で、撮った写真の中からいいのを選んで、その中からまたさらにいいのを選んで額に入れて家に飾ったりもしました。

でも、そのうちそういうのに飽きてしまいました。

なぜかというと、飾ってあるフレームの中の写真自体、僕が撮ったという個性がなかったからです。

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朝焼け

上の写真はずいぶん以前に初日の出を見に行った時に撮った一枚だったと思います。

この時は海岸にたくさんの人がいましたが、カメラを持って朝日をとっている人も多かったと思います。

それらの人たちが同じタイミングで撮った朝日と、僕が撮った朝日に何か決定的な違いはあったでしょうか?

もちろん、カメラやレンズの性能だったり撮影テクニックの差があったとは思いますから、同じ朝日でも違った表現にはなっているかもしれません。

でも、同じ機材、同じスキルを持った人同士が朝日というモチーフを撮ったら、そんなに違いはないというか、結局は似たような写真になってしまうと思うんですよね。

本当の風景写真家は、誰も撮っていない一枚を撮るために、ロケーションや時間や季節を問わず、誰も行ったことのない場所まで踏破していきます。

僕たちのようなアマチュアではなかなかそんなことはできません。

だから普通に風景写真を撮ると、どこかで誰かが撮ったのと同じようなものになってしまうことがほとんどになってしまいます。

いわゆる「絵葉書写真」になってしまうんですね。

だから、いまでは風景や史跡を積極的に撮ろうとは思いません。(たまたまそういう情景に会ったときにはもちろん撮りますけれど)

 

なんか風景ばっかり撮っても面白くないなぁ、と思って街中で建物やらを撮っていた時に、あることに気づきました。

たまたまフレームの中に人が入っていると、すごくその一枚に対するイメージが膨らんでいく。

情景に対するストーリーが無限に広がる楽しさを感じたんです。

人物が何気なく存在している情景。

そこには親近感だったり生活感だったり疑問だったり、いろんな感情が湧いてくるものです。

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Untitled

それともう一つ。

街で行き交う人々がフレーミングされた一枚は、もう二度と同じものが撮れないのだということです。

 木村伊兵衛は、居合斬りと同じように一瞬の日常の情景をライカのような小型カメラで切り取っていきました。

だからこそ彼の作品には息遣いが感じられますし、観るたびに違った感情が沸き起こってくる。

だから僕はストリートスナップが好きになり、今でも街に出かけてはパシャッと情景を切り取っています。

めくら打ちでも構わない。

 大好きなリコーのGRをカバンに入れて、木村伊兵衛ばりの居合いとまではいきませんが、刹那を写し撮る。

いいものが撮れなかった時のほうが多かったりしますが、なかにハッとする一枚があることがあります。

そういう一枚が撮れた日は、ああやっぱり写真は楽しいな、と改めて自分ひとりで悦にいるんです(笑)