ある報道写真家について
ピューリッツァー賞受賞後に自殺したケビン・カーターという報道カメラマンについて。
彼は飢餓地帯であったスーダンで撮った「ハゲワシと少女」という写真でピューリッツァー賞を受賞したのですが、この写真を巡って「報道か人命か」という論争が巻き起こりました。
そしてその後、彼は自殺したのです。
もっとも、彼は元々うつ病だったこともあり自殺未遂を2度も起こしていたことや、衝撃的な写真を撮ることやそうした写真ばかり喜ばれることに疑問を抱いていたということは、前提として知っておいて欲しいと思います。
ちょうどこの問題について改めてネット検索していたら、ニュートラルな観点で考察した記事がありましたので、ご興味のある方はご一読頂ければと思います。
第27回 「ハゲワシと少女」のカメラマン自殺
~“人命か報道か”の論議の中で~(2000・6・6記)
「ハゲワシと少女」の写真で1994年度のピュリッツァー賞・企画写真部門賞を獲得したケビン・カーター氏(当時33)=フリーカメラマン・南アフリカ出身=が7月27日、ヨハネスブルグ郊外で自分の車のなかで遺体となって発見された。
地元の警察では自殺とみている。自殺の原因は不明で、ピュリッツァー賞受賞と関係があるのかどうかわからない。受賞作「ハゲワシと少女」は、内戦と飢餓に苦しむアフリカ・ス-ダン南部で撮影された「飢えでしゃがみこんでいる少女の背後にハゲワシが佇む」絵柄で、同じ地球上の残酷な現実を切り取った写真である。
ところが、この写真が、ニューヨーク・タイムズ紙(1993年3月26日付け)に掲載されると、「なぜ、カメラマンは少女を助けなかったのか」という非難の声が巻き起こった。NHK教育「メディアは今」(1994・6・30)は、カーター氏へのインタビューをはじめ、多くの学者・ジャーナリストにコメントを求め、一枚の写真が提起した問題を検証した。そこには、人間の尊厳優先かプロ意識の徹底か、イメージだけが注目される写真の危険性などジャーナリズムの根幹に関わる多くの教訓が含まれていた。
【カメラマンの告白】
スーダン南部に潜入して飢餓の現実を克明に取材したカーター氏は「ハゲワシと少女」の写真撮影の前後をこう語った。
「国連などの食料配給センタ-から500メ-トル離れたところで一人の少女に出会った。こんな風にうずくまって(真似をして見せる)必死に立ち上がろうとしていた。その光景を見たあと、いったんはその場を離れたが、気になってもう一度引き返した。すると、うずくまった少女の近くにハゲワシがいて、その子に向かって近づいていった。
その瞬間、フォトジャーナリストとしての本能が“写真を撮れ”と命じた。目の前の状況をとても強烈で象徴的な場面だと感じた。ス-ダンで見続けてきたもののなかで、最も衝撃的なシ-ンだと感じた。自分はプロになりきっていた。何枚かシャッタ-を切ってからもっといい写真を撮るのにハゲワシが翼を広げてくれないかと願った。15分から20分ひたすら待ったが、膝がしびれはじめ諦めた。起き上がると、急に怒りを覚え、ハゲワシを追い払った。少女は立ち上がり、国連の食料配給センタ-の方へよろよろと歩きだした」
「この後、とてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情が沸き起った。フォト・ジャーナリストとしてものすごい写真を撮影したと感じていた。この写真はきっと多くの人にインパクトを与えると確信した。写真を撮った瞬間はとても気持ちが高ぶっていたが、少女が歩き始めると、また、暗澹たる気持ちになった。私は祈りたいと思った。神様に話を聞いて欲しかった。このような場所から私を連れ出し、人生を変えてくれるようにと。木陰まで行き、泣き始めた。タバコをふかし、しばらく泣き続けていたことを告白しなくてはならない」
しかし、彼は、一日に15人から25人は死んでいく村で、この少女がその後どうなったか見届けていない。
【是非論】
1994年4月、この写真が200点の候補作品の中からピュリッツァ-賞に選ばれると、改めて大きな反響を呼んだ。受賞作の写真を掲載したフロリダの新聞社には「少女を見殺しにしたカメラマンこそ本当のハゲワシだ」「ピュリッツァー賞は取材の倫理を問わないのか」といったきびしい批判が寄せられた。番組で紹介された識者の見方は次の通り。
○ビル・ライタム氏(在米アムステルダム・ニュ-ス代表)=否定
「この写真はジャーナリストに必要な良心が感じられない。写真を撮ることが大切なのか、目の前で起きている事が大切なのか、それが問われている」
○ステファン・アイザック教授(コロンビア大学)部)=肯定
「ジャーナリストは倫理的に考えて、取材しようとしている状況を変えることは出来ないという責任がある。カメラマンがハゲワシを追い払うべきだとは思わない。少女の命を救うことは彼の仕事ではない。彼はねばって子どもが死んでハゲワシが肉をついばむところを見届けるべきだった。残酷に聞こえるかもしれないが、それがジャーナリストの役割だ」と断言し、カ-タ-氏を擁護する。
○吉岡忍氏(ノンフィクション作家)=肯定
「ジャーナリズムは写真に限らず、文章に限らず罪深い職業だと常々思っている。誰かが不幸になっている、惨事に巻き込まれている、その上に成り立つ職業。自分が同じ状況に置かれたらどうするか。やっぱり撮る。徹底的に見る。鬼になって見る。絶対に目の前に起きていることから目をそむけない。これを自分に課している。人間としておかしいじゃないかといわれるが、『可哀相だ』という情緒的反応を起こさないように努力する。怒り、暗澹たる気持ち。一体、飢餓は何故起きるのか。問いつめていくうちに、やがて、それを撮ることが飢餓の現実を変える確信につながるならば、ジャーナリストとしての自分の倫理観との緊張関係のなかで仕事をする。苛酷な現実を見た時、誰も強制しないのだから、確信が持てなければ撮らない」と理解を示す。
上の一枚も掲載。過去の受賞作品を網羅した一冊。非常に参考になります。
【永遠のテ-マ】
日本でも「あの時もしカメラマンが人命を優先していたならば……」
といった事件・事故がいくつかある。
浅沼社会党委員長刺殺事件(1960年)や豊田商事会長刺殺事件(1985年)、紫雲丸事故(1955年)など。いずれも、その都度大きな社会問題になったが、将来、同じような出来事が起きた時の明確な指針はいまもない。「ハゲワシと少女」の場合も全米ジャーナリズムは賛否両論に分かれた。
若者はこの問題をどう考えているのか。マスメディアを目指す身近の19人の学生に「同じような場面に遭遇したらどうするか」と聞いてみた。その結果、「報道優先」が11人、「人命優先」が5人、「安易に答えを出せない」が3人だった。
共同通信によれば、8月1日、現地で行われたカーター氏の葬式には数百人が参列し、弔辞のなかで、日本の小学生から送られた感想文が紹介されたという。そこには飢餓と難民の惨状を教えてくれたカーター氏に感謝する気持ちが表現されており、カーター氏の父親は「死ぬ前にこの手紙を見ていたら息子は自殺しなかったかも知れない」と語っている。人命か、報道優先かは常にジャーナリストに課せられた永遠のテ-マであろう。(『くらしのレポート』NO102号1994・9)
ピント合わせ。
ピント合わせって、皆さんどうされてますか?
「そんなのカメラが自動でしてくれるから意識なんてしてないよ」という方も多いかもしれません。
たしかに、今のカメラはオートフォーカス、それもかなり精度が高くなっていますので、昔のようにピントがずれることはほぼありません。
でも、ピントをどのように、またはどこに合わせるかによって、表現したい選択が違ってきますから、ピント合わせについて少しお話ししたいと思います。
たとえば、以前書いたボケを使った写真の場合、当然、被写体にピントをしっかりと合わせる必要があります。
(ただし、レンズを開放にしている場合が多く被写界深度はとても狭いですから、ピント合わせはシビアになります)
それでは、風景写真の場合はというと、逆に絞りをF11とかそれ以上に絞って被写界深度を深めて撮影することが多いですから、風景全体にピントが合ってればいい。
というよりも、極端に言えば目の前に広がる風景のどこにピントが合っていてもいいわけです。
その意味で、風景写真、それも風景全体を撮影するときはピント合わせにそれほど気を使うことはないと思います。
では、スナップ写真を撮るときはどうでしょうか?
これはノーファインダーです😅
僕の場合、古いカメラを使うときはMFでピント合わせすることが多いです。
開放絞りなどの浅い被写界深度で撮る時はファインダー越しに真剣にピント合わせを行いますが、光量が十分確保されている日中のスナップではF8くらいに絞り込んで3m程度にピントを合わせておいてパンフォーカスでお気楽に撮っています。
AFだと楽といえば楽なんですが、基本的にカメラがピントを合わせるわけですからどこを基準にされるか分からないという不安があるので、複数の測距点を持つカメラではすべて中央1点のみの設定としています。
鳥や動物、乗り物などを連写で撮るようなスタイルの方は、数十個もAF測距点を備えたような高性能機の方が便利なんでしょうが、僕の場合はそのような機能はまったく必要ありません。
EOS-1Nを中古で購入した時にも「なんだ測距点は5つしかないんだ。EOS-1Vだと45個もあるのにね」とは思ったものの、考えてみれば自分は中央しか使わないのでいくつでも関係ないのです。
MFレンズで予めパンフォーカスにしてピント合わせせずにサクサクとスナップするスタイルだと、どんなに最新鋭のハイスピードAFよりも素早く撮ることができます。
個人的に大好きなレンズ「Planar50mmF1.4」
一方、光量が少なく開放絞りで撮る場合などでもMFの方が信頼できますし(なにせピント合わせの責任は自分にあるわけですから)、そもそもヘリコイドを廻すことでモチーフを結像させるというプロセス自体が好きなんです。
「結像させる」と言葉で言うとなんだか無味乾燥な感じですが、ファインダーの中でぼやけていたモチーフがくっきりと浮かび上がる様は、ある意味ではそのモチーフを自分の手中に入れた実感のようなものを感じるのですね。
中でも非常に立体感溢れる二眼レフのファインダーは、ピント合わせした際には見とれてしまうほどの美しいものです。(ハッセルブラッドのファインダーはさらに美しいです)
まぁほとんどのカメラやレンズがAFになってからすでに久しいですし、マクロ撮影などならまだしも、なにもわざわざAFレンズをMFにしてまで使うことは無いと思います。
でも、しっかりとピントを合わせるのであれば、やっぱりマニュアルでの方が安心感があります。
また、AFでピントを合わせる場合でも、そこにどのように合わせるかを常に意識しながら、絵づくりすると一枚一枚の仕上がりがまったく違ってくると思います。
タテ構図かヨコ構図か。
写真を撮るとき、ヨコで撮るかタテで撮るか、考える時ってありませんか?
最近はスマートフォンで撮る方も多くなっているので、タテで撮る人がかなり多いんじゃないかと思いますが、通常のカメラではそのまま撮ればヨコが基本になりますよね。
なので、特になにも考えなければ、スマホで撮ったらタテの写真ばかりになりますし、カメラで撮ったらヨコの写真ばかりになってしまいます。
タテとヨコ、どちらで撮ってももちろん構わないんですが、一応、それぞれの特徴を知っておくと自分の表現したい選択ができると思います。
ちょっとサンプルを見てみてください。
場所は東京駅ホームのほぼ同じ場所でタテとヨコで撮り比べています。
サイトにアップしているのでサイズ感が少しズレているため若干比較しづらいかもしれませんが、タテとヨコで印象が違うのがわかると思います。
観る人によって感じ方は違うかもしれませんが、ヨコの場合は安定感がある気がしませんか?
一方でタテの場合は緊張感が感じられますよね。
人間の目は横に二つ付いています。
なので当然、視野は横に広く、縦には狭いですよね。
これは僕の考えというか理解なんですが、人間の視野にフィットしているヨコの写真を観ると自然な感じを受けるから安定感を感じるし、タテの場合は違和感というか不自然さを感じるので緊張感を覚えるんじゃないかと思っています。
このように、タテ写真とヨコ写真の違いを少し頭に入れて被写体に向かうと、自分がその被写体やシーンをどのように表現したいかによってどちらかを意識的にチョイスできるようになります。
そうすることで、写真の表現が広がりますし、自分が撮った写真を後から見返したときも撮った時の印象が振り返られると思います。
ただ、スマートフォンの場合は横にして構えると不安定になるので、少し撮りにくくなっちゃうんですよね…😅
今回は簡単なテクニックをご紹介してみました。
一度ご自分でも意識して撮り比べてみてくださいね。
1/500
1/125秒。
それは写真家エリオット・アーウィットが最も愛するシャッタースピード。
では、自分は・・・
振り返ると、愛しているわけではありませんが1/500秒をもっともよく使っています。
理由は単純で、レンズシャッター機とISO400フィルムを多用しているからに過ぎません。
レンズシャッター機の場合、シャッターの機構上、最速シャッタースピードは1/500止まりであり、ISO400フィルムを日中に使用する場合はシャッタースピードの上限を使わざるを得なくなるからです。
ローライフレックスしかり、ハッセルブラッドしかり、コンテッサ35しかり、GR1sしかり・・・
ISO400フィルムを晴天日中で使用する際のEV値はおよそ17~18EVであり、本来であれば1/500というシャッター速度であればF16~22くらいまで絞り込まなければなりませんが、ネガフィルムだと特に露出オーバーに対するラチチュードが広いため、なんとなればF2.8の開放でも撮れてしまいます。
ということは、ISO400のネガフィルムをレンズシャッター機で使う場合は、シャッター速度は1/500固定ということにおのずとなるわけで、不精な僕からすれば絞り値だけ考えればよくなるのはかなり楽になるというわけです。
1/500秒。
この瞬間にさまざまな事象や想いが詰まっているとすれば、それは奇跡としか言いようが無いと改めて思います。
写真の楽しみは尽きることがありませんね。
レンジファインダーという選択。
最近はカメラにあまりこだわりがなくなったので以前に書いたようにiPhone Xで写真を撮ることが多くなりましたが、以前は基本的にはコンパクトカメラかレンジファインダーカメラばかり持って出ていたなぁという気がします。
気がするだけでなく、実際そうだったんですけれど(笑
持ち出す理由としては、軽くてカバンの中にもポンと入れておけるという手軽さもありますが、やはりスナップを撮る時のスタイルとしてはコンパクト機やレンジファインダーの方が機動力が高いという利点が大きいと思います。
よく使っていた(いる)カメラは、コンパクトカメラだとリコーGR、レンジファインダーではやっぱりライカM3になります。
GRはいまではデジタルのほうを使っていますが、以前はフィルムのGR1sも大好きでよく持ち出していました。
最高のスナップシューターだと思う。 |
一眼レフや二眼レフでは、やはりファインダー越しにジックリと構えることが多くなります。
というよりも、そういう撮り方の方がこれらのカメラでは自然かな?という気さえします。
もちろん、一眼レフや二眼レフでもサクサク撮ろうと思えばそういう撮り方だってできます。
でも、どうしてもこういうカメラだとファインダーを覗きながらジックリ構えてしまうんですね。
一方、レンジファインダーだと実にリズミカルに撮れる。
実際、かつての名フォトグラファー達はライカなどを片手に小気味よくスナップ撮影をしていたことでしょう。
ずいぶん以前ですがウィリアム・クラインが来日した時のスナップシーンでは、まるで踊っているかのようなリズムでノーファインダーも交えてシャッターを切っていたそうです。
(おそらくその時のカメラはニコンS3だと思われます)
レンジファインダーカメラを含めて豊富な品揃え。安心のカメラショップです。
このリズムの違いは、実はファインダーの構造の違いによると思います。
レンジファインダーカメラの最大の利点は、ファインダー内でブライトフレームの外側まで見ることができるということです。
しかもレンズを通った像をいくつものミラーやプリズムでファインダーに誘導する一眼レフや二眼レフとは違って、モチーフそのものをほぼダイレクトに見られるというのも美点です。
さらに言うと、一眼レフでシャッターを切った時のミラーアップによるブラックアウトもありません。
スナップの際、フレームの外側まで見えているということやブラックアウトが無いということは、人の動きを予想することができますし、構図を確認するにも非常に便利です。
これはライカやフォクトレンダー・ベッサはもちろんのこと、フィルムのコンパクトカメラでも基本的に同じです。
フィルム時代のコンパクトカメラのほとんどはレンジファインダーですから。
また、一眼レフに比べてボディもレンズも比較的小型軽量であることから、ノーファインダーでの撮影も容易に行えます。
ノーファインダーでなくとも、予め絞りを絞っておくことでピント合わせの作業を省いてリズミカルに撮ることも容易です。
(暗い場所で開放絞りでピント合わせする必要があるとき以外、スナップの場合は絞り込んで目測で撮る方法が基本です)
さらには、一眼レフのようなミラーが無いのでミラーショックも無く、暗い場所での手持ちのスローシャッターにも強いという利点もあります。
現在は一眼レフに取って代わられてレンジファインダーは細々と生き残っている“化石”のようなカメラですし、ミラーレス機がメインになりつつある今、一眼レフだってこの先どうなるか分からない時代ではありますが、あらためてレンジファインダーの良さを見直してもいいんじゃないかな、と思ったりします。
むろん一眼レフや二眼レフがダメだということではありませんが、今のように一眼レフ一辺倒だとカメラの違いによる様々な撮影手法を楽しむという行為がスポイルされてしまうと思います。
一眼レフには一眼レフの、二眼レフには二眼レフの、レンジファインダーにはレンジファインダーのそれぞれの美点がある。
けれども今のユーザーは、新品カメラでは一眼レフしかほぼ選択肢が無いわけですから、そもそもレンジファインダーカメラに触れる機会すらない。
これは非常にもったいないことだと思います。
「切り取り」について思うこと
「いい切り取りですね」
僕の写真を見た方から、こういうお褒めのコメントを頂くことがあります。
確かに写真は眼の前の事象を“切り取る”ものです。
が、“切り取る”というのは一体どういう行為なんでしょうか?
情景の一部を単に切り取っているに過ぎないのであれば、写真とはとても退屈なはず。
また、「構図」のことを単純に“切り取り”と言っているのであったとしても、なんだか釈然としません。
先日、スティーブン・ショアーの『写真の本質』を読み返してみました。
彼は写真について「物理レベル」「描写レベル」「メンタルレベル」の大きく3つに分けて説明していますが、「描写レベル」を説明する上で、『平面化・フレーム・時間・焦点』の4つのファクターを挙げています。
僕では彼の写真論をうまく伝えることはできませんので、ご興味のある方は本書を手に取って頂くことをお勧めしますが、ちょっと簡単に4つのファクターについて説明を試みたいと思います。
「平面化」とは、3次元の情景を2次元に置き換えること。
そうすることで、写真ならではの表現が可能にもなります。
(本書ではリー・フリードランダーの写真を使って、視覚的に分かりやすく説明されています)
「フレーム」とは、まさしく構図のこと。
写真のフレームの中に、なにをどう置くか。
それ自体で写真が分かりにくくもなり分かりやすくもなるし、撮影者の意図なども浮かび上がってきます。
「時間」とは、シャッタータイミングと露光時間。
この「時間」のコントロールや被写体とのタイミングによって、写真自体も大きく変わってくることはご存知の通りですね。
「焦点」とは、ピント位置や被写界深度。
これも言わずもがなです。
この4つの要素が同時にかみ合わさったものが、いわゆる“切り取り”ではないかと思うのです。
写真を撮る上で、アマチュアの私達であろうとも描写レベルにおいてこの4つのファクターを意識していることは言うまでもないと思います。
(顕在的か潜在的かは別としても)
ですから、当たり前のことではありますが、“切り取り”という一言の中にも、写真においては実に多くの要素が絡み合っていると考えるべきでしょう。
少々、小難しいことを考えすぎかもしれませんが、こういう理解を自分の中でひとつひとつ行っていくことが、写真表現の幅を少しでも広げることにつながっていくのではないかと考えています。
☆本格的に上手になりたい方はぜひ本書をおすすめします。